世界紅卍会道院の実態より

第一篇 道院の歴史

第一章 胚胎時代

1916大正5年~1919大正八年
山東省濱縣で福林さん、福縁さん、解空さん、吉中というような人々が集まってフーチで神さんの教えを受けていてそれが発展して
(きっかけは宇宙で一番尊い神さんは誰というお話からみたいです)済南に移るという時代の話のようです

胚胎時代とは民国五・六年の交(丙辰、丁巳 1916~17年)、山東省 濱縣縣公署内に祀れる大仙洞に於て
呉、劉、等の人々が神託を受けて居た、かの所謂濱壇より始り、済南神壇期を経て真経が伝授され了る迄の時代
換言すれば道院が誕生する迄の胚胎期を謂う。
之を(一)濱壇期 (二)済壇期 (三)真経伝授期の三期に分けて説くこととする。

第一節 濱壇期
 山東省濱縣は済南の東北二百支里の所に在り、道院発祥の地として現在は
(この世界紅卍会道院の実態の本が出版された時、従って現状とは異なります)宗壇が設けられ
道院修方のより、済南母壇と共に一の聖地と目されて居る。
民国五・六年の交、呉福林(江蘇省進縣の人、字を幼琴と云い、道名を福永と云う。
以下は道名で呼ぶ)が此の濱縣の知事として居り
同じく劉紹基(安徽省風陽縣の人、道名を福縁と云う、以下は道名で呼ぶ)
は駐防營長として在った。

此の両人は非常な信仰家で親交があったが此の他に縣公署に職を奉じて居る者に
洪解空(名は士陶、字は亦単、江蘇省如阜の人、解空は道名)
周吉中(名は徳鍚、河南商城の人、吉中は道名)が在り、此の両人も亦信仰家であった
丁度同縣署には尚真人を祭祀してある大仙洞と云う祠があった。
按ずるに各縣署内には概ね大仙洞が有るのであって、別に奇しむには足らない。
彼等は公務の余暇には相率いて此の祠内に壇を設け、乩と称する自動記述的方法によって神託を乞い
此の神託を奉じて事を運んでいた。

乩を請うこともまた俗間良く有ることで異とするには足らなかったのである。
所が不思議にもその神託が実に霊験あり、之に基いて事を運べば必ず善からざるなき結果をえたのである。
茲に於て彼等は愈々深く之を信仰篤敬し、常に香華酒果を供え潔誠して只管神に仕えた。
常時乩壇にに降臨したまえる仙聖賢佛は多々有ったがその中の最も多く降臨したまえる神、即主壇神は尚仙であった。
尚仙と云うのは今道院の壇院の掌籍として供奉するところの「尚真人」のことである。
尚真人と云うのは曾って唐宋の頃に実在の人として現世に在り道教を修めて仙籍に入った人である。
常時壇に侍する此等の諸子は此の主壇者たる尚仙の弟子として遇せられ各々道名を賜り
其の間の晤對の状景は恰も人間界に於ける師弟の間の如き親密さにも似ていた。
故に事有れば弟子輒(すなわ)ち叩問すれば尚仙は必ず之に答えたのである。

其の頃の,乩示は多く人に立身処世の道を教えたものであったが
時には時勢を悲しみ世俗を憫むの神意を現わし、
其の詩文を以て示せるものには惻々として人に迫り之を読むものをして油然として悲憫の懐を感発せしめ
為に幽明境を異にし乍、恰も謦咳に接する如く感通するものがあった。

 其の頃壇に降臨した仙仏を擧げると 白眉佛 眉陀尊者 呂祖(即ち今道院の統院掌籍として尊崇するところの孚聖である)
済祖(即ち今道院で慈院の掌籍として供奉し済仏と尊称する)
鶴神劉慧仙(慧聖と尊称し道院の統教附掌籍として供奉する・・太乙正経午集の眉注を殆ど担当なさっている
 老祖様が修養が他の方に較べてとても早く進んだと言われているお方です 
この方の修養方法が 太乙正経午集に説かれている修養方法)
文中子(かって済南道院で守沙仙・・・フーチの壇を護る方・・・として供奉していた)であるが
前述の通り尚仙が最も多く乩に臨んだ。

偶々同人のなかに宇宙最高の神に付て叩問するものが有ったが之に対して尚仙が答えて曰くには
「太乙老人を以て最尊とする、吾は此の最高神の降臨を請い奉るを憚るけれども
諸子虔恭なるに由り諸子に代りて南極老人に御取次を御願して見よう」と云う意味の乩示があった。
日を経て後、乩を請うと、南極老人と太乙仙尊が先ず降臨せられ
暫くして、太乙老人なる神が臨み給いて訓誨の詞を書き、侍壇者をして驚覚せしめた。
壇には侍れる諸子は或いは、稱へて、仙師と云い或いは尊びて老祖と曰った。

而して之を恭敬したのであったけれども
何分初めてのことで、其の至尊無上なること、実は現在道院に於て崇拝する老祖なることを知るに至らなかった為に
当時の訓語は多く散失し今残存するものも亦、系統の無い記録に過ぎないのは遺憾である。

 茲に所謂濱壇期とは民国五年より民国八年迄の四ヶ年(丙辰・1916~より巳未・1919)である。
其の前年二ヶ年の侍壇者は福縁、福永、解空(道院では有名な纂方)、吉中が主要なる者である
、臨時に参加したものも少なくなかった。
丁巳・1917戊午・1918の交(民国七年)の冬、福縁、吉中等が各職務の都合で済南に転住するに及び
濱署の壇は固より存続したけれども、茲に人事の聚散によって後日済南に移壇するの萌芽が兆した。
嗣(つい)で民国七年二月、李智眞(名は振均、字は海、安徽省合肥縣の人、智眞は道名)が其の任を引き継いで壇に侍した。

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